町のほぽ中央にある御津山を背にして、役場の西隣に横たわる学舎が御津中学校です。
戦後教育制度の改革が行われ、義務教育年限を小学校6年、中学校3年とするいわゆる「六三制」が実施されたのは、昭和22年4月でした。これは連合軍総司令部の強い圧力に押されてのことでした。
こうして新制中学校の誕生を見ましたが、余りにも急速な実施であったため、中学校自体に校舎がなく、やむをえず南北両小学校の校舎を利用することとして、4月18日に開校式を行い、1年と3年の生徒を南部小学校に2年の生徒を北部小学校に収容して授業を始めました。生徒は1年218名、2年165名、3年68名の計451名でした。そのうちで義務就学とされたのはこの年の1年生からで、2年生は国民学校高等科1年修了者が、3年生は同2年修了者が入学しましたが、義務就学ではありませんでした。
校舎の新設工事は早速開始されて、4月26日から作業が始まり、9月6日には第1期工事の竣工式が行われ、3年生が新校舎に移りました。続いて第2期工事も翌年3月3日竣工式を挙げ、翌日から全生徒が新校舎に入り、同月18日第1回の卒業式が挙行され、初の卒業生が巣立ちました。これは、卒業式は是非とも新校舎で、との願望が実ったばかりではなく、このように早い新校舎の竣工は、県下で屈指とされる快挙ともなりました。
当時はまだ戦後の日も浅く「無い無いづくしの時代」とも呼ばれて、物資は極度に欠乏し、資金もなく、物価が急速に高騰する状況の下での成果であり、関係者の努力と四囲の人びとの協力は絶大なものでした。
まず建設費について、22年度の決算によると歳出が296万円余、これを支弁した歳入には教育会繰入金として300万円が収納され、全額を賄っています。これは教育団体としての教育会に町民が寄付するという形で達成されたもので、事業推進の原動力となり、しかもこの額は町税収入を凌ぐ莫大なものでした。
つぎに用地確保の面では、泙野の区有文書によれば、21年2月区長と町会議員の協議会で、既に決定していた青年学校建設予定地を、大恩寺山頂から泙野字山下の泙野神社の所有地に変更することに決し、これを受けて泙野区は総会でその貸付を承認しました。
ついで10月には区長と町会議員の連帯会議で、青年学校建設委員が選出され、11月には地鎮祭を行ったと記されています。さらに12月の連帯会議では、学制が六三制となたため、青年学校を初級中学になるようにして、それを建設することに決したとあります。したがってこの時点で方向づけをされたことは、あきらかと思われます。
また、青年団は敷地の整地作業を受持つことを決めて、団員の勤労奉仕でこれを実施し、青年学校の生徒もこれに協力支援活動を行って共に校舎の建設に寄与しました。
その後も第3期工事や各種の施設整備が進み、36年度からは校舎等の鉄筋コンクリート化による改築や増築、新設等が推進されて面目を一新しました。
みと歴史散歩:❶駅中心に 平成12年2月発行より