当社の祭神は誉田別命です。創建は不詳ですが京都の石清水八幡宮を勧請したと伝えられ、管領の斯波氏が西方の地頭のころ、永沢太郎左衛門が応永年中(か戸に社殿を修理したと言われますが、慶長17年(1612)に松平長三郎が西方を領したとき、その臣永沢太郎左衛門に神社を造営させたとも伝えます。
現存の棟札で延宝2年(1674)のものには正八幡宮と、元禄6年(1693)から嘉永元年(1848)までの八枚にはいずれも八幡宮と記されており、明の初年に広幡神社改称されました。
社殿裏を囲む土塀は吉田城の遺構ですが、損傷のため修理されて、今は屋根瓦の一部だけが利用されています。
名奉行と言われた大岡越前守忠相が寛延元年(1748)大名に列して、西大平藩を創設したとき、西方村はその所領となり、明治二年に忠敬が版籍を奉還するまでの120余年間その治下にありました。
境内の護(五)穀神社は、天明5年(1785)の西方村差出帳によると、「これは宝暦年中(1751~)に殿様から戴いたもので、毎年2月15日にお祭りをする」とあり、越前守の深い稲荷信仰を裏付けております。またその子孫も後年豊川稲荷東京出張所の復活に寄与しました。
広幡神社のヤマモモ(町指定天然記念物)
境内のヤマモモは目通り4.39m、根回り4.61m、樹高16mの巨樹です。
みと歴史散歩:❶駅中心に 平成12年2月発行より