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御津町商工会

⑤ 忠勝寺 *森寺忠勝の墓

22.jpgこの寺は、御津町の表玄関愛知御津駅の南にあって、山号を貫道山といい、曹洞宗に属し、本尊は阿弥陀如来です。寺伝によると草創は文禄年中(1592~)とされております。
吉田城に入った池田輝政の命を受けて、西方の塁を守った森寺政右衛門忠勝は、塁の鬼門にあたるこの場所に寺を建てて、塁の鎮護を念じたものと思われます。忠勝は慶長4年(1599)死去し、この寺に葬られました。寺名の忠勝寺は彼の名に由来すると考えられます。
森寺氏は、主君池田家の分族から長貞を養子に迎えたほどで、重臣として扱われていました。したがって当寺は、備前岡山の池田家と深い係りがあり、その庇護を受けていたに相違ありませんが、古記録に乏しく今は僅かに、岡山と書かれた書状箱を残すのみです。
先代住職の話によれば、文書類は、戦時中、防空壕の中で雨水等のために損傷し、残念ながら廃物になったとのことです。戦時下という特異な事情に加えて、西方地区一帯は地下の水位が非常に高く悪条件が重なって、その損傷に拍車がかかったと思われます。
昭和20年8月7日、米軍機による豊川海軍工廠空襲の際に西方地区も大きく被災し、寺の周辺だけでも八か所に爆弾が投下され、地蔵堂、鐘楼、山門などが破壊されました
本堂の前庭にある巨大な石の地蔵尊は、日露戦役の戦病死者の霊を供養するために、19世喚応和尚が発願して建立したものです。
本堂に安置の地蔵尊は霊験あらたかで名高く、元は辻店辺りにあったと言われます。
なお、ここは吉田近辺三十六地蔵尊の29番札所で「明け暮れにおがむ心の忠勝寺佛の恵みなどか無からん」と詠ぜられ、その碑が山門の前に建っています。

【森寺忠勝の墓】この墓は本堂西側の墓地にあります。元文5年(1740)に子孫の池田隼人が建てたもので、表に忠勝院殿浄雲玄清居士左側に俗名森寺政右衛門忠勝、右側に慶長4年巳亥4月18日とあります。裏側の碑銘を意訳しますと「森寺政右衛門忠勝は池田紀伊守信輝(輝政の父)の家臣で、父藤左衛門秀勝は藤原秀郷の子孫田原又太郎忠網一六世の孫である。忠勝は武勇に優れ攻城野戦に従軍し、特23.jpgに濃州軽美、摂津花熊、小田原の役で挙げた武功は限りない。慶長4年4月18日三州西方村で没、53歳であった。
池田備中守長幸の次男長貞を後嗣と定められ、森寺主水長貞と称した。彼に子がなく弟長政を後嗣とし池田下総守長政と言った。後、主君池田氏の分族となり遂には源姓となった。忠勝の墓はあるが傷んでいるので、黒石で新しく建て先祖追慕の意を表わす」と記されています。
しかし『寛政重修諸家譜』では、輝政の弟長吉の二男が長貞で、長幸は父ではなく長兄にあたります。長貞については系譜に「次助、主水、母は伊木豊後忠次の女、宗家の臣森寺政右衛門忠勝の養子」と付記しています。

        みと歴史散歩❶駅中心に 平成12年2月発行より