この碑は、金野座王神社拝殿前の石段西側の土手にある、木犀の下にたたずんでいる。
金野、豊沢及び広石の地内に金野、豊沢、広石、西方、泙野、大草及び赤根七ヵ村共有の入会山があり、7ヶ村の者はだれでも、草を刈り薪を取ることが昔から認められていたが、明治の新政府によって地券証の発行、地租の改正民有地編入等がつぎつぎと実施された際に、金野、豊沢両村と広石始め5ヵ村との間に紛争が起こった。
これを解決するため、明治12年の春広石村の大正寺に入会村の惣代が会合し、協議を行った。5ヵ村側は、明治9年以来の地租その他の諸経費を戸数割で課出することを主張したのに対して、金野村と豊沢村は、2村で経費全部を負担し、5ヵ村に対しては馬草の刈取りは認めるが、薪の採取は一切断りたいとの意見で、円満な話し合いができず、そのため同年10月郡長に願い出て、説諭を望んだが解決されなかった。
そこで明治13年1月豊橋区裁判所に民有地券申受差拒ノ勧解願を出したが不調に終わり、同年5月改めて訴訟を起こし、五ヵ村の勝訴となり、明治15年に共有山を7ヵ村に分割し、うち一部は売却処分された。
その後10年を経過して、再び分割の議が起り、熟議検討を重ねた結果、遂に明治27年1月4日、共有山分裂盟約書を作成し、戸数に応じて各村に分割した。
碑はこれを記念して建立されたものであり、裏面に「明治27年建之 御津全邨 大塚邨大字赤根大草」と刻まれている。当時の御津全村とは金野、豊沢、広石、泙野、及び西方のことである。
なお、この入会山については、往昔からたびたび問題が生じたようであるが、それらについては、紙面の都合上かつあいすることにした。