この碑は、大字御馬字浜田の地内で東海道新幹線と、町道473号線が交差する地点に間近い、草むらの中に建っている。
古文書などの記録によるとここにあった城は、南北朝の内乱のさなかである応安2年(1369年)時の将軍足利義満の命によって、執事(後に管領となる)細川武蔵守頼之が、弟の細川右馬頭頼有に築城させ、これを守らせた。続いて細川頼顕頼長、時氏等が居り、永享、享徳の頃は細川治部大輔政信が在城し、ついで外戚酒部河内守時重がこれを堅めていたが、文明年中の擾乱の際今川義忠のために落城した。その後、城は一時荒廃に帰したが、寛永年間長沢松平氏の庶流松平浄感の一族が居館し、寛永11年主君松平定綱の桑名移封により、正保年中に退去し、やがて民地となり、宝永元年土手を崩し堀を埋め耕地としたと、伝えられている。
いつの頃からか里人は、この城跡を「須賀屋敷」と呼び夜になると幽霊が出るなどと言ったという話も伝わっている。明治の時代にこの屋敷の一角に、御馬村の避病院が建ち、それが宝飯病院に移された後は、部落の焼香場として利用された。現在はここを東海道新幹線が東西に走っている。
なお、当時碑は、明治末期に準備され、大正5年頃建立された雄大なもので、文字は大島徳太郎(君出)の筆になるとのことであったが、土地改良工事の際事故により破壊した。現在の碑は、その後再建された2代目の碑であり、当初のものに較べると規模も小さく、位置も若干移動している。
広報みと:❶いしぶみ 昭和48年2月20日号より