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御津町商工会

⑤ 平壌地と道標

新宮山から高坂城趾に連なる山なみを背にした段丘の裾に、面積55アール余の池がある。10-1.png
この池は、日清の役における平壌での戦捷を記念して、広石の渡辺鑵造翁が巨額の私財を投じ、広石住民挙げての協力によって出来たもので、平壌池と名づけ、田の潅漑に利用された。
池と共に水路も当然築造されたが、郷中の田へ導水するには前面に人家を配して横たわる高台が大きな障害で、やむなく二筋の隧道を掘り、これを水路とした。一つは150メートル程他の一つは120メートル程の長さで、人がようやく通れる位の大きさである。工事は、磁石と水平器をたよりに、専ら人力により両口から掘り進み、或は竪坑を穿って排土を図るなどして完成した。なお、広島の人で当時マンガン鉱採掘のため在村した大谷為之助(後に新宮山の登り口で、暑寒亭と称する小店を営む)を雇って、技術面を補ったという。
いずれにせよ土木機械のない明治の中葉に、このような大土木工事が施されたことは、驚異に値すると言10-2.pngえよう。この池と水路の竣工によって、昭和43年豊川用水が通水するまでの70年間、広石の農民は大きな恵みを享受したのである。
今は流れぬ池の水面に、水草が繁り、その西岸に明治31年に建てられた碑がたたずむ。
碑面には築造の由来等が記され、題額は陸軍少将(後に大将)土屋光春である。
また、新宮山の麓の道路脇に「従是西平壌池」の道標があり表面の下方に、測量師宝飯郡
書記清水市三郎、地理講究員惣代竹本林作、御津村長柴田勝誠と記され、裏面に明治32
年夏池所有主渡辺鑵造建設と刻まれている。

       広報みと❶いしぶみ 昭和48年1月20日号より