赤根に残る伝説によると、昔蛇塚の街道に笠をかむった行き倒れの旅人があり、里人がこの病人をねんごろに介抱したが、その甲斐もなく世を去りました。旅人はいまわの際に「私を祀りあがめるならば諸病を治す」との言葉を遺しました。そこで里人は、祠をも建うでてこれを祀ったと伝えられ、以来この祠に詣ると病気が平癒するとの話が世間にだんだん広まり、信仰されたといいます。
明治・大正のころになると、皮膚病・腫れ物・性病の治る神様として当社の雷名は、尾張・三河・遠州地方に高く聞こえており、赤根といえば癒守様といわれたほどです。正面に立つ烏居は岡崎の人、釣灯篭は西尾、賽銭箱は豊橋、百度石は桜井、ろうそく立ては寺津の人というように、みな皮膚病の治った人が喜びと感謝の心を表わして献納したものであります。町内の他の神社を見ても、このように諸方の人々から奉納された例は余りありません。当社の一特色を示したものといえましょう。
本県医師会が編纂した昔の医療を調べて書いた『愛知県医事風土記』にも収録され、当社の霊験は広く天下に紹介されています。御祭神は少名彦命で国土経営の神、また医薬の神として有名、明治22年10月22日瘡神神社と改称され今日に至っています。
神社の起こりを歴史的にみますと、昔ある侍が今川家から戦功の賞として陣笠をもらい、その笠を埋めた所が笹塚といわれます。『神社を中心としたる宝飯郡史』によれば、赤根の郷士鈴木孫市という人が笹塚の霊夢により、諸病をなおす神として延宝元年(1673)当神社を創建したと掲載されています。
むかし瘡を病んでいた大塚村の尼僧が当社に祈願したところたちまち全快したので評判となり、おいおい信者がふえました。境内の笹をいただいてきて風呂に入れ浴用すれば、たいへん効能があるといわれ、明治・大正のころ霊験の誉れは最高潮に達して、三遠·尾張方面から続々と信者が参詣するようになったのです。神社側もこれに応じて大浴室を設け、大人4人以内30銭という入浴券を発行して整理に当たるほどでありました。
明治19年、境内向かって左方に2間4尺と5間4尺の参籠殿を建て、ここにおこもりをしながっら境内向かて右方にあった浴室で湯治をしました。
湯にはお笹が浮かび硫黄臭のある鉱泉が用いられていたようです。近くに山田屋・池田屋・仲田屋などという宿屋もありました。
病気が治るとお礼にカワラケ(ホーロク)を奉納するならわしで、奉納された何千というカワラケが山をなしているのも見事なものであったといわれています。また当時は、地元にカワラケを製造販売することを業とした人もいたのです。
当神社は、ことに花柳界の女性に人気があり素晴らしい美人が時折参拝したといいます。
一般の信者も毎日訪れ、客はお笹の品切れに不満を示し、中には浴場に使う井水を汲んで持ち帰る人もあったといいます。
昭和に入り次第に衰微し、戦後は著しくさびれて旅館も薬湯もその姿を消してしまいました。例大祭は赤根区が侮年10月に実施しています。
みと歴史散歩:❺海沿いの道 平成12年2月発行より