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御津町商工会

④ 法住寺

県道赤根国府線を法住寺前まで行くと、目の前に「国宝千手観音」の石碑が建っ182.jpgています。そこが参道の入口です。両側に梅の木が続く参道を進むと石段を上ったとっところに山門があり、さらに参道が続き、その正面に明るい境内と屋根に鯱のある本堂が見えます。
この寺の本尊は大日如来ですが、お観音様で親しまれています。山号は呑海山といい曹洞宗の小本寺であります。

法住寺と足利11代将軍
創建は永正5年(1508)9月と伝えられ、開基は、足利11代将軍義澄であります。義澄は明応3年(1494)征夷大将軍に任ぜられ、幾多の曲折に翻弄されながらも17年間その職にありました。晩年は前将軍の足利義植が大内義興に守られて京に攻めのぽると聞き、近江の甲賀に逃がれ、九州の雄大友親治・義長父子を頼って京の恢復を図り、同8年5月上京しようと企てました。しかし、望みを果たせないで同年8月14日近江の岡山(近江八幡市付近)において32歳の若さで没しました。
これより先、足利氏の有力者細川家が三河にあり、また当寺付近の豪族波多野氏は細川氏の臣であったため、ともどもその領内に一寺を建てるようにとの義澄の意をうけて当寺を創立し法住院と号したのです。当寺にある義澄の位牌には法住院殿義澄旭山大居士となっています。一方、『国史大辞典』によると法号は法住院殿旭山清晃とされています。清晃とは、天竜寺において僧籍に入ったときの称(名前)でありましょう。
寺はもと神場山(当寺の東方に連なる山)にありましたが、荒廃がひどかったため領主松平長三郎忠高により寛永19年(1642)現在地に移転され、立派な堂宇が建てられました。
したがって忠高を中興開基と称しています。
忠高は教えを信じていた幡豆郡長円寺の3世愚渓膳哲和尚を招いて寺名を法住寺と改め、本寺の開山としました。その後忠高は、明暦2年(1656)6月に6石5斗の寺領を寄進しています。
なお、戦国時代には今川義元・氏真父子の当寺に対する帰依も厚かったのです。

中興開基松平長三郎忠高
領主松平長三郎忠高は旗本で、その祖は深溝松平であります。忠高は吉田城主松平主殿頭忠利の弟忠貞の子で、忠貞は元和5年(1619)将軍秀忠に従って伏見城に滞在したとき、城内において没しました。享年32歳でありました。
忠高は、父忠貞が没したとき四歳でしたが、翌年、跡目を相続したのです。忠高の妻は吉良上野介義央の父の妹ですが‘延宝2年(1674)になくなりました。忠高も元禄5年(1692)に没したため、2人とも赤穂義士騒動以前にこの世を去ったので、身内の不幸は知らずにすんだわけです。
また、忠高はこの上なく当寺が気に入っており、江戸でなくなりましたが遺命により亡骸をわざわざ江戸から運び、当寺の裏山に葬りました。自休院殿不峯源白居士といいます。墓は本堂裏の広い墓地の1番奥の所にあり、小堂に祀られています。

森下入道の墓
森下入道とは波多野家次のことで、波多野家はむかで退治で有名な田原藤太秀郷の子孫で、今の神奈川県秦野市にいたから波多野を氏としたのです。その後、義重は越前の永平寺を創建するのに第一に力がありました。南北朝のころ行近が三州宝飯郡森下に移ってきて豪族として栄えました。
この家は、前九年の役に経範という人が討死にしたのを始めとし、南北朝ころから戦国時代にかけて、各地の戦いに参加し、12名もの戦死者が出ています。
家次は道観と号し出羽守であり、かつて牛窪地方を領した一色氏を討ったことで知られる波多野全慶の孫にあたります。時の足利義晴将軍から御紋を拝領するほどの武功がありましたが、天文5年(1536)の正月23日に織田信秀との戦い、近くの弥勒寺峠で討死、時に66歳でありました。最勝院殿道彗了山大居士とおくり名されています。墓は、もと法住寺の裏山にありましたが、いつのころからか、今は改葬されて山門前の左側に祀ってあります。

千手観音菩薩立像(国指定重文)
この観音像は、昭和6年12185-2.jpg月に国宝に指定された国の重要文化財で、藤原末期に属する秀作であります。像高167・3㎝、ヒノキの素地彫り(一本彫刻)で作られています。.像の前面部は頭部から下端まで一木から刻み出していますが、後頭部・背部・両手などは矧寄せられた古様なつくりとなっています。宝髪には群青、唇に朱、目や眉などは墨をほどこしてありますが、そのほかは素木のまま木目を生かしてあります。胴や両脚あたりの部分には木地の上に亀甲つなぎ、七宝つなぎ、網目、菊花文などの戟金文様が置かれています。
明治元年の王政一新の波に乗って神道を盛んにし、仏教を排斥する廃仏毀釈という政策が全国的に実行され、多くの仏像経典類が廃棄されたとがあったのです。その頃、当村(赤根)に今泉唐左衛門という伊勢通いの船乗りがいました。たまたま伊勢宇治山田の上善寺に祀られて広く衆生の信仰を集めていた仏像が海に流されようとしているのを見ました。大変もったいなく思い、四体もの仏像をもらいうけて船に積みこんだのです。すると寺側から「そんならこれももらって行ってくれ」と、生きた人間のお小僧まで預けられてきたということです。
唐左衛門は家に安置してお祀りしようとしましたが余りに大きすぎるので、お小僧ともども仏像を法住寺に運びこんでお祀りするようにお願いしたといいます。
また、唐左衛門が形原の補陀寺に預けた薬師如来像は、県指定の文化財になっています。

観音様の例大祭と月例祭186.jpg
観音様の霊験はあらたかで、家内安全、商売繁昌、入学祈願等諸願がよく叶えられ、参拝客は引きも切らずで、成就のあかつきはだるま様を奉納するのが習いとなっています。
昭和53年に観音堂は鉄筋コンクリートづくりに改築され、境内も整備されて立派になりました。
4月17日の例大祭をはじめ、毎月17日に例祭が催され、近郷近在はもちろん遠方からも老若男女をとわず数千人の参拝客でにぎわいます。
境内には市がたち、露店商が数十軒も軒を並べ、祭礼を一段と盛りあげています。
お寺では祈祷料をおさめると、大祭ではご飯、例祭ではうどんの接待がいただけます。

開山堂・位牌堂
本堂に続いて奥に位牌堂、その奥に開山堂があり、ともに昭和56年に改築されて立派になっています。
開山堂には、室町幕府第11代将軍足利義澄、今川義元、豪族波多野家次、松平長三郎忠高公の位牌がおさめられています。

左甚五郎作の唐猫
神場山から移された中門には左甚五郎作といわれる唐猫の蛙股があり夜な夜な抜け出して庫裡の食べ物を荒らすので、時の和尚が足を切り落としてからおとなしくなったという伝説があります。中門は、昭和三四年九月の伊勢湾台風で倒壊し現在はありません。唐猫はガラスのケースに入れられて保管されています。

法住寺文書(安堵状)(町指定文化財)
足利幕府が崩壊し戦国の武将が割拠した時代に、今川義元・氏真父子は当寺への帰依も厚く、永禄元年(1558)に今川義元、同三年に今川氏真が出した寺領安堵の文書があります。前述した松平長三郎が明暦2年(1656)に出した寺領安堵の文書とともに、町文化財に指定され保管されています。

弘法大師と弘法様
梅の並木が続く参道の山門をくぐると、両側に88体の弘法様と札所の御本尊が仲よく並んでいます。当寺は三河88か所弘法大師第五一番札所でもあります。境内の弘法様は、当村の鈴木氏(鈴源の祖先)が中心になり明治19年から21年にかけて仲間の信者と協力して四国八十八か所にならい、裏山の弘法山全域にわたって祀りました。
時は移り、山の木々も大きくなり、お参りする人々が難儀するので、昭和30年に現在地に移したのです。毎年旧暦3月21日は大祭で、多数の参拝客があり、施主からは菓子等の接待が行われています。

       みと歴史散歩❺海沿いの道 平成12年2月発行より