徳川家康より5代前の松平親忠の5男超誉上人が幼少のとき仏門に入るため、大恩寺において剃髪し一生僧侶として修業を重ねたのち知恩院の貫主となったのですが、さらにまた、徳川家康の父の弟即ち叔父にあたる成誉上人も同じ大恩寺において小僧となり剃髪して仏門に入ったわけですが、のち、永禄年(1558-1570)に大恩寺第一二世住職となりやが て天正元年(1573)岡崎の大樹寺へ転住しました。そして同3年4月同寺において遷化しました。
当時家康は海道一の弓取りといわれ武勇のほまれは高かったのですが、元亀元年(1570)浜松城に入城依頼今川郡武田軍に対抗しつつ遠州の経営に心を砕きながら、ときどきは大恩寺を訪問したとみえ、そんなとき話のついでに住職の叔父から何分の寄付を頼むぞといわれたこともあったでしょうがそのころ有力大名として羽振りのよかった甥として快よくそれを引受けたであろうことは十分推察されます。寛延3年(1750)の大恩寺古記録にその間の事情が書かれています。「(前略)、(成誉上人)は松平広忠公の御舎弟にして神君の御家伯にましませば、神君しばしば光駕をよせたまひつぶさに此尊像の威霊をしろしめし御帰敬あさからず、上人そのかみ供養のために、もとめをきたまへる膏田ありしに、その直ひを上人のもとへおくりたまひて神君あらたに仏供の料に御寄付ありて、かりに印信をなしおきたまひぬ。そののち、神君東都へ御入り成誉上人はほどなく同国の大樹寺に移りすませたまひしに、ほどへて東都より上人のみもとへ御書おくらせたまひ、かつて大恩寺になしをかれたる御寄付の田地を百石の御朱印に御改ありて、これをおくりたまひぬれば、すなわち御書御印ともに現住(当寺14世)演誉のもとへ御授与ありき。是によってそのかみ御諱御花押などなしおかれたる神君の御手書および新古の御朱印今なお当寺の什宝たり(後略)」
さて、家康の書状(写真)は読下しにしますと「芳札の如く先度は向顔を遂げ恐悦の至りに候。然れば御津大恩寺領判形の事、仰せを蒙り即ち朱印相添え進覧候向後聊かも相違有る可からず候、御心安ぜらる可く候。猶後音を期せしめ候。恐々謹言。3月5日 家康花押 大樹寺成誉上人貴報」
寺記によればこの書状は天正2年(1574)のもので、すでに成誉上人は大樹寺に転じた後でしたので大樹寺という宛名が書かれていますが、内容は大恩寺に関することですからこの書状は当の成誉上人がら大恩寺の方へ贈られてきたものです。
広報みと:❽文化財(その他)昭和61年10月15日号より