大恩寺山の南中腹にあたる広石字御津山11の12に所在し、創立は山口五六、河原八重作、小林広次氏らが主となり料飲芸妓等四業組合や西方の商工会発展会などが、町の発展を図って昭和の初めごろここに御津山遊園地を開き、園の中心として大恩寺にあった毘沙門様をおまつりしたのですが毘沙門様というのは実は仏土の四方を守護する四天王の中の多聞天のことであって北方に配置されております。多聞天が独立して1個の状態の場合は毘沙門天と名が変るわけですが同一の仏様です。国土安全、五穀豊穣にあらたかな役割を果されるといわれます。当所の本尊様は勝敵毘沙門と称えられ徳川家康の祖父の松平清康の念持仏であって、清康は生涯にわたって心に天下平安の祈願をこめ終生これを所持されてきたものでしたが、武勇絶倫であって四方の戦いに参加し中でも享禄2年(1529)19才のとき吉田城を攻撃して牧野伝蔵四兄弟を討取り、ついで田原城の戸田政光をも降したのでしたがのちに深く尾張に攻入りさらにまた、同3年20才のときは八名郡の宇利城を攻めて熊谷備中守を降すなど神出鬼没の奮戦をしたわけですが、天文4年(1535)12月織田信秀を攻撃しようとして守山に進みましたが部下の誤解から陣中にて殺害されました。二十五才でした。この事件が世にいう守山崩れというものです。このように武勇すぐれた人の守り本尊でしたが遺言に基きその子広忠より大恩寺へ寄付されたわけでした。
さて話は変って遊園地を開くについては、毘沙門様を中心として飛行機型の遊歩道を作り尾翼に当るところに毘沙門様を奉安し、そこより麓の方へ階段を設けて飛行機の胴体としさらに主翼として左右に細長い広場を造り、夜間は飛行機の形が映出されるようにこまかく電灯を配置いたしました。桜の木も植えました。筆者少年のころは飛行機公園といわれていました。新愛知新聞によると昭和5年7月13日御津山遊園地開設とありますのでこれが竣工創設の日と思います。また、昭和9年5月下沢米次氏が御津山遊園地株式会社を作り貸別荘や旅館の三楽荘を経営したのもこのころのことです。
昔は例祭には芸者の手踊りや花火などが盛んに挙げられましたが、現在は西方の発展会や豊橋のカネス呉服屋などの方々が尽力して多聞閣の繁栄に寄与せられ、毎月3日にお祭りが行われ大恩寺住職により商売繫昌、家内安全の御祈禱がつとまり多くの参拝者でにぎわっています。