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御津町商工会

㉑ 茂松城跡

76.jpg字名をとって高坂城ともいわれるこの城は三河双紙という本には、源範頼が三河守であったとき居城したと書かれています。かなり古い山城で、去る昭和37年6月、当時名大教授の松井武敏、澄田正一両氏が実地検証にこられたとき、澄田氏は山頂の城跡付近で内耳のついた鎌倉期の陶器片ほか1点を拾われました。ただ、発見状況が表面採取であったため、城に関係する器物と確定するわけにはゆかないとのことでした。
この城は後年、細川兵部少輔勝久が在城しましたが、文明・長享(1469~1488)のころ、今川義忠に攻め滅ぼされたといわれています。
それが、小正月のもちいの祝日であったため、広石村民は、将士をあわれんでその行事を中止しました。このとき以来、もちいの飾りを廃止したまま今日に至っています。
後年、牧主計がこの城に入りましたが桶狭間の役で戦死しました。彼は本姓を牧野といい、今橋城主牧野成時の六男といわれます。
標高60mの山頂にある本丸跡は平坦で、三方に土塁の形を残し、少し下がったところに古井戸があります。確証はありませんが、規模・位置・形態からいって永禄(1558~)ころの改築はほぼ疑いなく、長沢松平氏によって竹本城の詰城として使用され、御津の知行を守る最後の拠点であったと考えられます。

       みと歴史散歩❷古道に沿って 平成12年2月発行より