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御津町商工会

⑬ 『御舳玉神社』

108.png豊沢字石堂野15に鎮座せられます。御祭神は住吉大神です。遠い神代のむかし、伊弉諾尊は亡くなった妻の伊弉冉尊に面会すべく黄泉国へ行かれましたが、そこは意外にも醜悪な世界であったことを見せつけられ、お負けにひどい仕打ちをうけて追い帰されたので黄泉国でうけた汚れを払うため筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓をされたとき出現されたのが底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の3神でしたがこれは綿津見神であり海洋航海の神として知られます。後に神功皇后が新羅を攻められたとき協力して偉功をたてられた神々といわれこれが当社の御祭神住吉大社の御事です。
御津神社の御祭神が伊勢から海路御津へお出になったときお供をしてこられたのが船津大神と磯宮楫取大神とこの御舳玉神社であったということは前号でお話しましたが、上陸なされた所に船津社がありこれは今の船津橋附近ですが、磯宮社は御津北部保育園の北隣にその旧跡を存じております。この2社は後に移されて御津神社境内になりますが御舳玉神社は茂松村の氏神様として現在地に御鎮座となりました。創立はほぼ御津神社と同じころと思われます。祭日は春秋2度で御津神社と同じ日になっています。いかに両社の因縁が浅からぬものであるかが知られます。元の祭日は4月初申の日であってこの日神前に烏賊を供してお祭りするところから、いか祭りといわれるのですが御津神社でも同様の仕来りが継承されていて、氏子はこのお祭りがすまない前はいかは食べないという習わしになっていました。秋は9月15、6日に大祭が行われましたが、今はどこのお宮様でもそうですが本当の縁日ではお祭りはつとまらず氏子の都合で祭日はかえられ、当社も4月の第1日曜日となっています。「三河国官社私考」の上巻47枚目の裏に、「(前略)茂松村の産土神を御舳玉大明神と号ふ、こも御供の神なり。今この社に其の時の御船なりとてくり抜きの古き木船あり何れも御津神社の摂社也」と書かれてありますが、その船は早川氏の書いた宝飯郡誌の当社の記事に「(前略)御船ナリトテクリヌキノ古き木船アリシヲ享保年中(1716-)本殿改造ノ際誤テ古殿共ニ焼捨シ」とでておりますように残念ながら今はなく、どのような形のものか知ることはできません。当社は代々榊原氏が禰宣をつとめ後には白井、市川各氏が後を襲いました。

      広報みと❻文化財(神社 昭和57年7月15日号より