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御津町商工会

⑬ 敬円寺

166.jpg本寺は真宗大谷派に属し、元は額田郡(現岡崎市)針崎の勝髪寺の末寺でした。
山号の満照山は現住赤松氏の祖先満照に因むと考えられます。南北朝以来の名門赤松氏の当主満祐が、所領のもつれから足利六代将軍義教を嘉吉元年(1441)に殺害した後、幕府軍に攻められて自刃した折り、幼少の三男満照は三河碧海郡に落ちのびました。その満照が寛正2年(1461)に蓮如上人から浄欽の法名を授けられ、同郡三木村に道場を開いて布教に努め、永正12年(1515)入滅しました。
以後も道場は継承されましたが、永禄6・7年(1563~1564)の三河一向一揆の和議による改宗を拒んで信州飯田に逃れ、やがて元亀元年(1570)三河に立戻り、宝飯郡赤根村に身を寄せる間に当寺を建立したのです。境内墓地の古塔は、開基浄欽の墓とされています。
この波乱に満ちた開創の経過は、山門を入て左手の鐘楼にかかる釣鐘の銘にも刻まれ往時を偲ばせます。ただし現在の鐘は昭和33家康の家臣が、一向寺院の不入の特権を侵したことから永禄六年(1563)一揆が起こり、非門徒の国人衆が一揆に味方したり、家康家臣の一族が敵味方に割れるなど、複雑な様相を見せながら翌年和議が成立しました。

方便法身尊形図(町指定文化財)
方仙法身尊形図とは、礼拝の対象として本尊阿弥陀画像に、本願寺の宗主自らが裏書して末寺や門徒に免許、下付するもので、現存裏書で信頼できるのは、多く蓮如以降に属するとされます。
本図は長享3年(1489)に蓮如上人から三木不道場の択浄欽に下付されたものと、上人自筆の裏書によって知られ、当寺の歴史にとどまらず、三河の真宗史の上からも貴重な遣品です。保存よく彩色も鮮明であって、500年の星霜を経たとは思われないほどです。
このほか当寺には蓮如上人筆の六字名号や同上人の木彫座像など多くの什物が伝えられています。
墓地には開基浄欽の墓とされる古塔のほか、俳人南条春林の墓もあり注目されます。春林 は羽田野敬雄の手習いの師匠でもあり、文化5年(1808)に敬雄(当時兵作)に書き与えた手本が、現在町教育委員会の所蔵となっています。
医師にして俳人の春林は、始め白烏の俳号で江戸雪門系の御馬湊社中に参加、一時高浜に移り寉亭白亀を名乗り、後再び御馬村に帰住し、文化7年に鈴木木蘭が没した後は、雪門の地方宗匠として寉亭連を率い、文政2年(1819)69歳で没しました。

       みと歴史散歩❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より