小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

⑩ 長床遺跡

162.jpg昭和11年五月、御津南部小学校(当時尋常高等小学校)の講堂改築中に発見、発掘された土器が、弥生中期の編年に位置づけられ、出土地に因んで長床式土器と名づけられました。時の木下梅蔵校長の予見により慎重に作業が進められ、完全な形の出土品を多く得ることができました。
翌年発行の『愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告書第15』に、それらの写真や図面が掲載され、それまでに知られていた弥生式土器とは異なる形状・文様などが注目されるようになりました。
胴部がソロバン玉状で、口縁部が広いこと、頸部に簾状の文様、腹部に櫛描きの横線と波文のあることが特徴とされます。
その後、この遣跡について調査はされなかたのですが、昭和62年に老朽化した講堂の取り壊しにともない、改めて確認調査が行われました。6日間の、トレンチ3本を掘っただけの調査でしたが、多くの長床式土器が出土し、大溝・小溝も検出されました。平成元年に刊行の『長床遺跡確認報告書』では、附近の層序が概略確認でき、この地域が弥生中期の集落跡の一部と推定されるとしています。
本格的な発掘調査が望まれるところですが、一帯は急速に宅地化が進み、条件は困難になるばかりです。
なお、出土した土器の腹部に見られる大きな黒斑は、弥生式土器に広く見受けられる特徴です。縄文式土器が野焼きであったのに対して、弥生のそれが何か覆いをして焼かれたためと考えられています。

       みと歴史散歩❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より