小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

⑲八幡社

一色城跡をあとに、北へ少し進むと、88-1.jpg牛久保の商街がある常盤通りに出る。この通りの向こうに八幡がある。八幡社の始まりは、社伝によれば奈良時代という。当時、三河国は大変な飢きんにあい、朝廷では倉を開いて、苦しむ民衆を救った。しかし、その次の年も不作となり、人々は離散し、土抽は荒廃してしまった。そのため、この地は常荒とよばれたという。時の国司は、民衆の心のすさぶことを憂い、社殿を建て仁徳天皇を祀り、人々の心のよりどころとした。これが八幡社の始まりといい、その後、室町時代の明応年間に応神天皇を合祀したといわれている。当時は若宮殿とよばれていた。

牛久保の若葉祭 【県指定無形民俗文化財】
牛久保の若業祭は八幡社の例祭で、4月7、8日に近い土曜日に宵祭り、日曜日に本祭り89-3.jpgが行われる。祭りの始まりについては、元禄14(1701)年に著された『牛窪密談記』によれば、牧野成時(古白)が若宮殿(八幡社)に参詣の時に、主君の今川氏から馬見塚(豊橋市の吉田城付近)に築城するよう命を受けた。成時はこれを当社の御恵みと喜び、これより毎年連歌の発句を詠んで若葉に結び神前に供えて牧野家の武運長久を祈ったことから、この祭りを若葉祭とよぶようになったという。祭りには、地元の上若組、西若組、神児組、笹若組の四組の氏子が参加し、祭りの神事と芸能は八幡社及び獅子頭の送迎・神輿渡御が行われる八幡社と天王社の往復道中などで主に行われる。
宵祭りでは午後3時半に、本祭りでけ午後1時に八幡社がら天王社への行列が出発する。各組からは祭事・ダシ(馬簾)持ち・警護の若衆等が加わる。ダシは各組の象徴であるため大切に扱われ、上部に付けられた飾りは各組ごとに特色があり、ダシ持ちは決められた場所で警護の合図に従いダシを衝き上げたり、地面に立てて回転させる衝き廻しを行う。また、笹若組からは、金襴の服に裁着袴を着た大太鼓1人と小太鼓2人からなる笹踊りと、この踊りの囃子方である30人ほどのヤンヨウガミも加わり行列の最後尾につく。ヤンヨウガミは「サーゲニモサーヤンヨウガミモヤンヨー」と囃したところで路上に寝転び、仲間から手を差し出されるまでは起き上がってはならないとされ、この寝転んでいる様子がうじ虫に似ていることが、若葉祭りが「うなごうじ祭」とよばれる理由ともいわれる。八幡社鳥居前には上若組と西若組の大山車が控え、還御の行列が近づいてくると、かくれ太鼓とよばれる稚児舞の迎え打ちが始まる。この舞いは、唐子(中国風)のような衣装を着た中学生が、笛や小太鼓に合わせて首を振りながら踊るもので、中でも欄干から体を半分以上乗り出す動作は圧巻で、初めて見る人の中には稚児を人形と間違える人もいる。
2日間の祭りの中で最も祭りが盛り上がるのが、本祭りの還御の行列が八幡社に到着した後に行われる三ッ車の神事である。午後7時頃に行列の先頭が八幡社に到着し、そして最後尾のヤンヨウガミが八幡社の鳥居をくぐると年番の青年正副総長は4組に渡り(連絡)をつけ、三ツ車の神事の準備完了を正副祭事長に報告する。そして祭事長の合図により三ツ車の神事が始められると一斉に神児車の神児舞、大山車のかくれ太鼓が始まり、上若組・西若組・神児組は2つの大山車・神児車・笹若組の前で競い合うようにダシの衝き廻しを行う。その後、笹若組が神児車・大山車の前でダシのつき廻しと笹踊りを行い、神児舞の終了後に祭事長が解散の合図を行うと、各組のダシは掛け声とともに一気に各会所へと退いていく。そして先ほどまでの喧騒も一気に引き、神社の周りは静寂に包11まれ、祭りは終わりを迎えるのである。

    豊川の歴史散歩豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より