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御津町商工会

⑬長谷寺

光輝院を出て東へ400m行くと、浄土宗寺院の長谷寺がある。寺伝によれば牧野家家臣の真木田内左衛門の舎弟であった念宗が、大和長谷寺の住職を辞めて観音像を持ち帰り、一堂を建立したのが始まりという。元は牛久保城の馬出という場所にあり、その後現在地に移ったという。

山本勘助の墓 【市指定史跡】
長谷寺の墓地の一78-2.jpg角に、武田信玄に仕えた武将として知られる、山本勘助の墓(遺髪塚)がある。
勘助は青年期を牛久保で過ごし、その後諸国を遍歴し、天文12(1543)年に甲斐の武田家に召抱えられ数々の戦功をあげたのち、永禄4(1561)年の第4次川中島合戦で討死したといわれる。勘助は牛久保在住以来、長谷寺住職念宗と親交があり、信玄に召し抱えられた時に、遣髪を念宗に託した。川中島合戦での勘助の戦死を伝え聞いた念宗が、その遺髪を埋め五輪塔を建立したという。
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木造摩利支天騎像【市指定有形文化財】(見学できません)
この像は、長谷寺本堂内にある漆箔の厨子の中に安置されている。像の高さは5.5㎝の小像で、勘助の念持仏と伝えられている。長谷寺17代積誉和尚が著した「山本晴幸襟掛本尊摩利支天縁起」によれば、武者修行で訪れた高野山で本像を賜ったという。勘助は戦死の際に本像が他人の手に渡ることを恐れ、永禄3(1560)年に念宗に送ったという。

    豊川の歴史散歩豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より