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御津町商工会

③牟呂用水

旗頭27-1.jpg山尾根古墳群をあとに、再び長慶禅寺のところまで戻ると、牟呂用水が視界に入る。この牟呂用水は、明治時代に水不足に悩んでいた人々が、苦心のうえ開いた用水である。

賀茂用水の工事
旧八名郡八名村大字八名井(新城市八名井)、金沢村(金沢町)、賀茂村(豊橋市賀茂町)は、土地は肥沃であったが豊富な水源がなく、人々は溜池などを利用して農業をしていた。そのため、稲作は少なく畑作が主であった。それでも人々は稲作を増やそうと努力を重ねたが、干ばつにみまわれるなど、生活は苦しくなるばかりであった。そのような状況を打開しようと、八名井・金沢・賀茂の人々は用水路を造ることを決意し昭和20(1887)年4月に、八名郡一鍬田村(新城市一鍬田)から賀茂村に至る賀茂用水の工事を開始した。工事は難工事であったが、関係者の努力により、同年7月には約8㎞間の工事を終えた。しかし、9月の暴風雨のため用水路は破壊されてしまい、これを復旧するには多くの費用を必要としたので、すぐに復旧工事を着手することができなかった。

牟呂村までの用水路延伸 ~牟呂用水~
そのような中、山口県出身の毛利祥久は、渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の海面を埋立て水田を造る(毛利新田)計画を立て、その水源として賀茂用水を牟呂村まで延長したいと考えていた。毛利は八名井・金沢・加茂の人々と数回にわたり交渉を行い、その結果、今までの堰や用水路の幅を広くし賀茂村から牟呂村に至る16㎞の新しい用水路を、共同で造ることで話がまとまった。そして明治20年11月には、「牟呂用水開削施工方法書」を県庁に提出して工事が始まり、明治21(1888)年6月に工事は完了した。しかし、明治24(1891)年10月に濃尾地震が起りこ、新田の堤防が壊れ、翌明治25(1892)年9月には、台風による高潮で新田の堤防と牟呂用水が大きな被害を受けてしまった。再三にわたり災害にあった毛利は復旧をあきらめ、毛利新田は売却されることとなった。

神野金之助による復旧とその後
明治26(1893)年4月、名古屋の実業家である神野金之助により、毛利新田と牟呂用水は買い上げられた。同年6月より新田の復旧工事が始められ、9月には工事が終了し神野新田が完成した。牟呂用水の修理は、明治27(1894)年3月から行われ、明治32(1899)年に全工事が終了した。牟呂用水は、その後もしばしば修理や改良などが行われ、戦後には水路のコンクリート化が進められ現在に至り、農業用水路として水路周辺一帯を潤している。現在、牟呂用水は、正式には牟呂松原用水牟呂幹線水路といい、独立行政法人水資源機構豊川用水総合事業部が管理している。

    豊川の歴史散歩豊川沿いを行く 平成25年10月発行より