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御津町商工会

★『笹踊りと七福神踊り』 (6-④)

70-1.png西御馬に八幡社があり、東御馬に引馬神社があります。
引馬神社は史書に、一条天皇の正暦年間(990-994)に京都の八坂神社から勧請されたと書いてあります。小野道風が没してから2、30年のちのことで、有名な清少納言が枕草子を書き上げた西暦1000年よりは10年ほど前にあたります。
八幡社はそれから200年あとの建久2年(1191)に三河の守護となった安達藤九朗盛長が鶴ヶ岡八幡宮から分霊をうけてきたものといわれています。盛長は只今放映中のNHKの大河ドラマ「草燃える」で頼朝と政子との恋の橋渡し役を演じているおなじみの人物ですが、笹踊りはそのころから始められたものと伝えられています。「やあまんだいそんれい」などという道中ばやしの言葉は鎌倉時代のものだとのことで、かなり古いようです。70-2.png
さてこの笹踊りは、大太鼓1人、小太鼓2人の奉仕者が中心となり、この3人は1週間も家庭から離れて別火食事をとり、すっかり身を清めて「やんよう神」として崇拝される位をさずかります。踊りの方は黒塗りの市女笠のふちに赤布をめぐらし、鉢に無数の小さい御幣をつけたものをかぶり、錦織りの陣羽織を着て同じ布の腕貫きをはめ、紫りんずのたつつけ袴をはき胸に太鼓をくくりつけます。区内をねり歩き要所要所で3人三どもえになって踊ります。歌い手がごへいのついた笹を振るので笹踊りといわれるとのことです。一方七福神踊りの方はその起源は新らしく幕末のころから始められました。
このように大掛かりでしかも古色ある二つの神事が長い間続けられてきたことは誠に結構なことで、保存会の皆様のご苦労に頭がさがります。去る51年8月27日に県の文化講堂で公演されましたとき岡本典子という司会者が、笹の赤布にかくれている三人の顔をのぞきこんでから観衆に向ってハンサムな方たちですと目をまるくして紹介したことを思い出します。

          広報みと❺文化財 昭和54年5月15日号より