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御津町商工会

⑥ 『西方古塁趾』

61.png池田輝政というエリート武将が、吉田城主(豊橋)となってきたのは天正18年(1590)でした。吉田在住わずか10年で慶長5年(1600)関ヶ原役の功により姫路へ変わってゆきました。彼が吉田へ入城したとき、四囲の重要地点に有力な部将を派遣して拠点となる城塁を築かせました。田原には伊木清兵衛、新城には片桐半左衛門、加茂には戸倉四郎兵衛、牛久保には荒尾平左衛門、そして西方には歴戦の勇士森寺政右衛門忠勝が配置されたのです。彼はその主君が姫路へ変る1年前に53歳で西方でなくなりました。忠勝の名をとった忠勝寺に今もその墓があります。
その後、慶長17年(1612)に松平主殿頭忠利が吉田城主になると、その弟の忠真がこの西方の塁を守り、その子の忠高の代に、もらっていた1200石の知行所を幕府に返上し、代りに1200俵の蔵米をもらうことにして江戸に移りました。主のなくなった城塁はその家老の長沢太郎左衛門がもらいうけ、老衰のため武家を捨てて百姓となりましたが、時の代官鈴木八右衛門は「お前の長沢という姓は長沢松平家にわるいから変えよ」といって、自分の鈴木という姓を与えました。これが鈴木家のはじまりで、ただ今はみちさんが当主であります。
城塁の広さは、東西330メートル、南北220メートルもあり長方形で、古老の話では幕末のころは鶴が飼われていたそうです。明治20年(1887)ごろは土手に古木が茂り、趣きのある老松が林立し、土手の穴には狐もすんでいて村の人から油揚げなどの供養をうけていたそうですが、明治21年に鉄道がしかれると、その轟々たるひびきにびっくりして退散してしまったとのことです。今思えば隔世の感があります。めぐらされていた高土手と水濠も明治末年ころには順に崩されて、あと方もなく今日では小川内科の裏にある、土手の木立ちと堀の池が、わずかに当時をしのばせています。

          広報みと❺文化財 昭和53年8月15日号より