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御津町商工会

㉞ 慈眼山『円蔵寺』

150.png当寺は金野字西沢55にあって大恩寺を本寺とする浄土宗の寺です。山号は慈眼山といい、天文19年9月(1550)の創立で開山は賛誉等印上人です。ご本尊は木造(銅か)金箔塗りの阿弥陀如来で美しい尊容は襟を正さずにおきません。その他、両祖大師、三十三番の33体観世音等が安置されていますが、この観音様は破損や紛失のためか現在20体しかありません。別にお厨子入りの十一面観音菩薩と地蔵菩薩(尊体を認めえず)と善光寺如来と弘法大師との四体があります。十一面観音につきましては隣地の八柱神社にある観音様とで一対をなすものと言い伝えられています。何れのお厨子も立派なものです。なお、この弘法大師は宝飯郡新四国71番札所とされています。祭日には本堂の中央に遷して一般の参拝にそなえました。ほかにまた、十王と倶生神の十三仏が安置されており、その表情は豊かで人をひきつけるものがあります。
 寺にはもと2反7畝の田畑と山林4反8畝ほどの寺領がありましたが、戦後の農地解放で失なわれました。山林は1反程度を残すのみで他は処分されました。本堂は間口5間半奥行5間半の木像瓦葺寄棟造りで明治12年に建てられ組物も多く立派なものです。庫裡は間口4間半奥行5間半の木像瓦葺ですが、これは200年ほど前のものです。
境内墓地には正面の向って左の墓が竹内治郎兵衛家、右が竹内七兵衛家のもので双翼のごとく並び紋所は菱に根笹となっており村雀のささやきには「金は七兵衛。田地は治郎兵衛」と歌われたということで旧家の双璧でした。その右の墓は社会教育家として全国的にその名を知られた修養団の顧問として活躍された竹内浦次翁の永眠の所です。修養雑誌「向上」とか「白ゆり」というものは翁の書かれたものです。翁は明治20年にここで生まれ、昭和57年3月23日数え年96才で亡くなられましたが、その幼少時代は円蔵寺と八柱神社のあるこの静寂の地で生長されたわけです。戒名は求道院蓮誉教範浦善居士といい、翁の献上した鳥居なども厳然として聳え立っています。この墓前の広場は明治・大正のころ八柱神社の祭礼の余興芝居が行われガス灯の明りの眩しかったことを覚えていると古老(竹内俊雄氏)は伝えています。境内には庚申塚や行者像もあり、寺は戦後まで観音寺郷と灰野との集会所の役目を果しお日侍や区長の選挙などもここで行われたとのことです。現在本寺の方丈が兼務住職となっています。
広報正月号を書く当たり、寺名を読めば円を蔵するということになり、たまたま当寺が今月号の執筆順位に遭遇したことは寅年の経済社会に顧りみて興味深く感じております。四囲山にかこまれ俗界を遮断したこの地こそは悪の芽も育たぬ仙境と考えられます。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和61年1月15日号より