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御津町商工会

③ びんご林

この碑は、赤根宇宮前地内東海道本線北側の畑の中にある。3.png
元筑後春日山28万石の城主備後刺史萩原左ェ門芳信が、応仁の乱(1467年~1477年)のさなか、三河に落ちのびて御堂山の僧徒を討ち、丹野、山神、大塚、赤根を領し、御堂山の頂に城郭を築いて、僧徒でこれを固めた。
東方の軍勢がおし寄せるとの報に、文明2年(1470年)7月6日、部下を率いて山を下ったところ、にわかに僧徒の叛逆にあい、これと戦ったが遂に力尽き、林にかけ込み馬上で自刃したと伝えられ、ここに塚が設けられて備後塚と称し、随近を備後林という。
なお、ここから西寄りの、ほど近い半郷地内に、傘状の赤松の老樹があり、西宮の傘松と称しているが、芳信の乗馬を葬ったところとされ、馬塚とも呼ばれている。
芳信には、四郎、里丸の2人の遺児があり、いずれも里人の養子となり、戦国の世を赤根の地で成人した。
ちなみに、芳信の菩堤所である大塚の長興寺には、その位牌があり、また赤根の氏神萩原神社の祭神は、この萩原左ェ門信郷で、写真の「びんご林」の標柱の後方に見える鳥居が、すなわち萩原神社である。

        広報みと❶いしぶみ 昭和47年6月20日号より