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御津町商工会

⑦ 竹本古城址

新宮山の南西に12.png、西から東に帯状に横たわる台地があり、その突端に竹本城があった。
ここは大字広石の、字竹本と字船山に跨る地域で、里人は「城屋敷」と呼び、面積千五百坪余り、周囲に大堀をめぐらし明治維新頃までは、その形跡をとどめていたという。その後徐々に田畑宅地等となり、あるいは道路が設けられるなどして、現今ではその面積も概ね往時の5分の1程度となり、船山地内の一隅の高台に、わずかにその面影を残すのみである。ここには小堂が建てられて、姫杉大神が祀られその南西に姫杉と称する杉の大樹があったが、枯死したため昭和42年に切り倒され今はその跡に1本の若杉が植えられている。
城の沿革については、宝飯郡誌によれば、築城年月不詳、天正年間(1573~)長沢松平上野介康忠の巨山田長門守晴政が居城したとあり、別の記録には、建武年間(1334~)新田義貞の「十六騎が党」の1人である高田薩摩守義遠の次男又次郎政季が築城し、姓を竹本と改め、その子孫が居城したが、竹本四郎左衛門成久に至り、永禄3年(1560)主家の今川義元が桶狭間で敗戦したため、同五年城を捨て、父重正の隠居地隣村為当村に帰農し土着したと記されている。
また応仁の乱(1467~1477)に落城の記録や、宮路城に攻め落とされたとか、今川勢のため敗戦したとの伝説もあるが、さだかではない。
なお、この城跡は新宮古城とも称する。
写真の碑は、昭和10年に建立され、文字は大口喜六の筆になるものである。

       広報みと❶いしぶみ 昭和48年3月20日号より