小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

⑫ 佐脇神社  *欇社五社宮

この神社は122.jpg、かつて熊野権現社と称していましたが、明治維新以後佐脇神社と改称されました。ご祭神は、伊排冊尊・速玉男命・事解男命のお三方です。平安時代の末ごろ、和歌山県の熊野より本宮・新宮・那智の熊野三山の神々を奉じた人々が西三河に入り、その神徳を宣伝し各地に分社を創立しました。これらのうち一部の人はさらに東三河に入り、この下佐脇に熊野本宮の神々のうち伊弉冊尊・速玉男命・事解男命を祭神とした熊野権現社を創建しました。これが下佐脇の佐脇神社の始まりで、ここを根拠地にして熊野の神々を四方に宜伝し、その勢力を拡張し渥美地方にまで及びました。下佐脇に定着した熊野の人は、生田・榎本・宇井・鈴木の4氏で、佐脇の4姓と呼ばれています。生田氏については、かつては鈴木一族であったが、下佐脇に移る以前、額田郡生田村(岡崎市美合町)に熊野のお社を創り、鈴木氏が神主になりました。やがて下佐脇に移った鈴木氏は姓を改め、生田村の村名の生田を名乗ったということです。その後、この佐脇神社を本宮とし羽鳥にあった藤社を新官に、野先にあった東光寺を那智にあてて熊野三山になぞらえました。このように下佐脇は熊野三山とは自ずから支配関係ができていったと思われます。そのために下佐脇は熊野本宮に初穂米を献納することを例としていました。戦国時代は領主奥平九八郎の崇敬あっく天文6年(1537)にご宝殿を建てた棟札が残されています。それには「祢宜生田彦三郎」とあり生田氏が神官をつとめていたことが分かります。
享保6年(1721)旗本佐脇四郎左衛門の求めにより、佐脇村祢宜兵衛等3名は、「佐脇御氏御由緒覚書之御事」を差出しました。また、境内には、「佐脇神社昇格記念碑」があります。これらによると、領主の佐脇氏は、佐脇天神を崇敬し、600年程前に、大般若経を奉納したことが記されています。この経文は、長松寺に移され、三尺坊と熊野山伏供養のため、転読が続けられています。

御神木「梛の木」
熊野権現を祭神としている神社の境内にはよく椰の木があります。この神社にも宝蔵の前に御神木として植えられています。
「椰」は「凪」に通じるとして、海上安全、家内安全、災難除けの信仰があります。また葉脈が笹のように平行に走っていてなかなかちぎれないことから、縁結びの願いがかなえられるともいわれています。

摂社五社宮(御所宮)本殿(町指定文化財)
本社の向かって右手奥に5社宮(御所宮)があります。持統上皇が三河へ御幸されたときの行在所跡といわれている所に建てられた御所宮は、明治6年の一村一社の制により佐脇神社境内に遷座されました。そのとき、五座のうち二座の祭神は御馬に残されたといわれます。下佐脇羽鳥の天王社と藤社の2社が明治11年新たに合祀されました。
本殿は、3間社切妻造、1間向拝付き桟瓦葺であり、棟札や建築様式からみて延宝5年(1677)造営のものが、現在に残されたものと推定されます。よく原形を保ち江戸時代初期の建築様式を伝えており、愛知県内でも30棟を数える程度であり三大へん貴重な建物です。
昭和57年9月町文化財に指定され、その際修理を加え、屋根を軽くするために銅板葺に替えられました。

下佐脇村梅薮村
蛤取場諍論の論所絵図(町指定文化財)
当社の宝蔵には、江戸時代以後の村の様子を記録した文書などがたくさん保管されています。なかでも蛤取
諍論の論所絵図は貴重な歴史資料です。
この絵図は、慶安4年(1651)下佐脇村と梅薮村が蛤の取場で争いを起こし、それぞれの村の言い分を訴えた時のものです。
図の下部の色の濃い所は海で、その海の中に太い墨の線が引かれ、右方には「蛤取場、是ハ吉田領梅薮村之者申候所」とあり、その左に「蛤取場所、是ハ下佐脇村より申候所」と書かれていて、訴えの言い分のくいちがいが図に示されています。裁判中に両者の言い分がさらに紛糾しないように、後の裁判の証拠としたものです。原図はひどい虫入りのため裏打ちをして補修されているので裏書きがっ読みにくくなっていますが、その文章によって裁許絵図でないことが分かります。
絵図裏書:「表書之蛤取候出入之儀、重而御検使被遣落着有之迄者、双方共21切蛤取申間敷候。御検使之上、非儀之方ハ急度可行曲事候。其内右之場所二而蛤取候者有之者可申出、不論理非籠舎可申付者也 慶安4年卯3月2日
        源左衛門  蔵人  内蔵允  出雲  右京

       みと歴史散歩❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より